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持って来た殺生石

 投稿者:那須高原湯本ガイドクラブ庶務担  投稿日:2011年 1月13日(木)00時19分26秒
返信・引用
  白河市常在院にある行状記は源翁大和尚が応永3年(1396)正月7日に遷化し、永享元年(1429)正月15日源翁の33回忌に二代大仙碵が記したものである。漢文体で記され、師源翁大和尚の出生より仏道修業と遍歴当常在院開基、会津景徳寺及び示現寺開山さらに『那須野殺生石にまつわる金尾九尾の狐物語』等が記され71歳の示寂までの師の生涯について綿々と記述されている。

ここのお寺には源翁和尚が殺生石の一部を持ってきたとされている石がある。
おおきな石の上に乗っている小さな石です。

http://sports.ap.teacup.com/dapara/

 
 

飛び散った殺生石福島県会津美里町高田

 投稿者:那須高原湯本ガイドクラブ庶務担  投稿日:2011年 1月 8日(土)21時05分21秒
返信・引用
  殺生石稲荷神社の由来
御祭神  宇迦魂神(うかのみたまのかみ)
鎮座地  大沼郡会津高田町宮林甲四三七七ノ四番地
御祭日  毎年二月初午の日 毎月一日 月首祭
由 緒  当神社の創始は中古の頃か、詳らかでないが、天保年間殺生石の霊を慰め災害をなくしようと、祭祀を復興した。爾来壱百六十年会津開拓の祖神を祀る伊佐須美大神と相倶に、普く庶民の崇敬を専らにし、殖産興業、商売繁昌に霊験灼かな神として敬仰されてきた。
 然るに昭和の現代特に終戦後、思想の混迷と神祇崇敬の念哀微とに加えて、御社殿の老朽化甚だしきため、久しく高天原の渡御殿を仮宮に奉遷していたが、天皇陛下御即位満五十年の佳辰を記念して奉賛会を組織、篤志家の浄財によって御社殿を造営し、祭祀を興隆した。維時、昭和五十一年十二月二十日也。
殺生石の由来 昔から宮川の氾濫と落雷と火災とは、当地の住民にとって最も畏怖すべき天変地異であり、災難であった。
伊佐須美神社の御手洗であり、川として左程大きくない宮川の洪水に多くの犠牲者が出るのは、殺生石の祟りではなかろうかと、その恐怖は幾代か語り継がれてきた。ある時、在村の藩役人三村某が発願し、村人と共にその霊を手厚く祀ったのが、天保十二年(一八一一年)この時、水神も亦奉祀された。(この水神社は、当社の南手瓢箪池の側に立つ赤鳥居の神祠がそれで、数年前再建、祭祀は復興した。祠に天保十二年の刻印がある)ところでこの殺生石は、至徳二年(一三八三年)会津の名僧源翁和尚が、人民を苦しめていた殺生石を説伏、教化した際に打砕かれた化石の一つが、会津のこの地に飛来してきたと傳えている。栃木県那須湯本温泉神社近くには、今尚湯煙りが立ち込め、毒気を朶んだ岩石が「史蹟殺生石」として保存されている。

http://sports.ap.teacup.com/dapara/

 

飛び散った殺生石

 投稿者:ガイドクラブ庶務担当  投稿日:2011年 1月 4日(火)12時17分37秒
返信・引用 編集済
  美作高田、現岡山県真庭市勝山の化生寺(かせいじ)の境内に殺生石がある。
http://www.kanshin.com/keyword/1925045
玉雲山化生寺・曹洞宗
本尊は十一面観音。禅宗寺院らしく簡素な造りの本堂。開山は源翁心昭

地頭三浦の祖、三浦介義明は、上皇鳥羽院を夜な夜な悩ますもののけを退治したが、その正体は金毛九尾の老狐で、唐の国から渡って来たものであった。逃れて那須野ヶ原で殺生石となり、尚人畜に害を与えた。高僧玄翁和尚が調伏し、錫杖で叩いたら三つに破れ、越後・備後・美作の三高田に飛び散ったという。
そこで三浦貞宗は、張本人の玄翁を勝山に招き、その石を地中に埋め鎮守とし、一寺を建立します。それが化生寺です。

三浦氏は関東の豪族三浦義明の後裔と伝えられる。すなわち三浦義明の子義澄の弟に佐原義連がおり、義連の子横須賀時連の子に杉本下野守宗明がいた。そして、宗明の次男貞宗が美作三浦氏の祖になったという。しかし、貞宗の美作入部の時期については、諸説あってよく分からない。美作に入部した貞宗は高田城を築き、随慶寺・化生寺を建立した。その後五代にわたり、在地豪族として勢力を築き、貞連のときに全盛期を迎えるのである。
 貞宗の子行連について、暦応二年(1339)十月の天龍寺創建に際して、随兵として三浦遠江守行連の名が見え、その後、貞和五年(1349)、高師直と足利直義が不和となった「観応の掾乱」のとき、行連は師直方となって、直義邸を三浦駿河次郎左衛門藤村とともに襲撃している。さらに、同四年、応安元年(1368)に、越後奥山庄についての近隣土豪の領内侵入を幕府に訴えていることが、三浦和田文書に見えていることから、行連は父貞宗とともに横須賀に在住し、いまだ、美作高田には下向していなかったようだ。
 長亨元年(1487)、足利将軍義尚の江州在番衆に三浦駿河守貞連の名がみられる。すなわち、足利義尚が、近江守護佐々木高頼を討伐した際に、貞連は佐野貞綱、有元民部丞、安威新左衛門らとともに、将軍に従って、近江坂本に出陣したのである。

http://sky.ap.teacup.com/nasu-gide/

 

殺生石伝説

 投稿者:ガイドクラブ庶務担当  投稿日:2011年 1月 4日(火)12時04分36秒
返信・引用
  九尾の狐が石に化身した那須の殺生石の伝説
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BA%E7%94%9F%E7%9F%B3

至徳2年(1385年)に玄翁和尚によって打ち砕かれ、そのかけらが全国各地に飛散したという。

http://sky.ap.teacup.com/nasu-gide/

 

歴史から消えた那須大八郎宗久

 投稿者:那須高原湯本ガイドクラブ庶務担  投稿日:2010年12月19日(日)11時21分31秒
返信・引用 編集済
  那須大八郎(なすだいはちろう)と鶴富姫(つるとみひめ)の恋物語(こいものがたり)
 今から、八百年ほど前のことです。
 今の山口県下関の壇ノ浦(だんのうら)では、平家(へいけ)と源氏(げんじ)の最後の戦いがくり広げられました。
 はげしい戦いの末に平家は敗れ、生きながらえた者は、散り散りばらばらになって、逃げていきました。そして、ある一行は、けわしい山を越え、道なき道を通って、ようやく山深い椎葉にたどり着きました。
 「ここまでくれば大丈夫だ。敵もこんな山奥までは追いかけてこないだろう」
 平家の一行は、ほっと胸をなでおろしました。
 しかし、人のうわさは速く伝わるものです。
 いつしかこのことは敵方に知れわたることとなり、源氏の総大将、源頼朝(みなもとのよりとも)は、家来の那須与一(なすのよいち)に追い討(う)ちを命じました。
 ところが、与一はこのとき病気にかかっていたので、代わりに弟の大八郎が椎葉に向かいました。

 しばらくして、ようやく椎葉にたどりついた大八郎でしたが、そこで目にしたものは…、戦う気持ちを忘れたかのように一心に畑をたがやす平家の人々でした。
 「ここにいる者たちは、もはや源氏に対する憎(にく)しみや敵意などもっていない」
 そう感じた大八郎は、
 「椎葉の平家の残党(ざんとう)は一人残らず討ち果たしました」
と、頼朝にうその報告をした後、この地に屋敷(やしき)を建て、これからもこの場所で生活していこうと決めたのでした。
 それからというもの、大八郎は、平家の守り神をまつる神社を建てたり、平家の人々に農業を教えたりと、彼らの生活を助けながら、ともにくらしていました。
 その後、しばらくして大八郎は平家の「鶴富」という名の美しい姫と出会いました。静かな山里で親しく話をするうちに二人の間に恋心がめばえました。
 しかし、二人は源氏と平家のかたき同士です。
 最初、二人は人目をさけて会っていましたが、そのうちに大八郎は愛する鶴富姫と生涯(しょうがい)をともにすることを決めました。二人の結婚を村中が祝福しました。


しかし、幸せな日々は長く続きませんでした。
 ある日のこと、大八郎に、
 「すぐに椎葉を離(はな)れ、戻ってくるように」
との命令がおりたのです。
 そのとき、すでに鶴富姫のお腹(なか)の中には大八郎の子がやどっていました。
 しかし、命令ですから大八郎はもどらなければなりません。
 いよいよ椎葉の地を離れる日がきました。
 大八郎は鶴富姫に向かって、
 「とうとう、この日がきてしまった。おまえのお腹の子は確かに私の子だ。もし、生まれてくる子が男の子なら、私のふるさとによこしなさい。もし、女の子ならこの地で育てるがよい」
と言い残すと、親と子の証拠の品として、刀を与えました。
 大八郎が椎葉の地を離れた後に、鶴富姫は出産しました。生まれた子は女の子でした。
 母となった鶴富姫はその子を大切に育て、その子が成長すると婿(むこ)を取りました。
 そして、愛してやまない大八郎の「那須」の姓を名乗らせたといいます。

http://angel.ap.teacup.com/dapara/80.html

 

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